重いこと考えちゃってるよ

雨が降っている。ザァーーーーーーーーーー……………………という個々の別を判断できないほど断続的な雨音が、静かな社内に沈殿するように流れている。まるで、ザァーという耳鳴りがしているような錯覚に陥るほど何もない、静かな時間の中で仕事をしてる。
仕事をしながら考え事をするのは、常だ。
私は、ずっと芝居をやってきて、ゆえにイメージだけで私という人格を認識されて困った経験を幾つかしている。また、舞台上の私しか知らない人、舞台上の私を期待しているだろう人、前からの知り合いでもプライベートの私より舞台上の私の方を主に知っている人と接する時には、自分でも知らず知らずのうちに舞台上の私のイメージを意識してしまい、ストレスに感じたり、失敗したりすることがある。逆に、「舞台上の私」を演じなかったがゆえに失敗したと感じることもある。そんなことを意識しているうちに、時々本当の自分と舞台のイメージの自分が混同するようになる。自分を見失う時がたまにある。私って、どんな人だっけ。
私の所属していた劇団は、非常に固定カラーのインパクトが強い劇団だ。大抵はそのカラーどおりの舞台を上演する。でも、ごくたまに劇団カラーとは違う舞台を上演することもある。すると、決まってある感想が「期待外れ」という感想。友人や家族からも笑いが少ないと「つまらなかった」、「物足りなかった」と言われていた。
人によって物事の捉え方や抱く感想は十人十色。だから、「こういうふうに感じる人もあるのか」と参考程度にして、いちいち揺れ動かされないようにとは思っていた。と言っても、粗末に思っているわけではなく、納得できる、もっともだと思えるものについては自分の中に取り入れていく。どんな感想でもお客さんがそう思ったことには変わりないんだから。
ただ、「一面的にのみ捉えられたときの窮屈さ」はずっと感じていた。人って、誰しも一面的な性格だけではないでしょう。人に限らず何かしらのカンパニーだってそう。その一面だけを見て、ああだこうだとその全部を把握しているかのように語られると……何というか、好ましく思えない。それだけじゃないのに。それは、たった一部で、ほかの面もあるのに。それは、その人のたった数時間を観察しただけの感想であって、その人の何十年を、24時間を見たわけではないはずなのに。みんな羽目を外すときもあるし、勢いに任せて失言をするときもある。その事実のまずさを批判するのはいいけど、全体を、人となりを拒絶するのはどうなの?
……と、考えて、いつもここから私の中に矛盾が生じる。私もそういうことをやってきているから。私だって、ある人の一つの発言だけをとらえてその人をさんざん避難したり、一面だけをとらえていいだの悪いだの偉そうに批判することもある。っていうか、実際してきた、と思う。サービスを提供する側に立つと「客だからって無責任なこと言いやがって」と思うこともあるし、客の立場になると「こっちは客なんだから、思ったことを主張して何が悪い」と思ったりもする。
だから、私はどっちの立場も批判できないな、と思う。ただ、心がけているのは、どんなにぼろくそに批判したととしても一度心底惚れ込んだものを見捨てることは(比較的*1)しないということ。三くだり半を突きつけたように見える発言をしても、実際のところは見守り、追いかけ続けることが多い。だれにも、どのカンパニーにもスランプの時期ってのはあるものだし、と割り切って、いろんな側面があることを認めて、見続ける。惚れたのはその本質であって、核の部分であって、その一面のみではないということだと。
今日は、ちょっとあることをきっかけに、そんなことを考えた。

*1:断言できないところが我ながら情けない